Thoughts
for
Humanity
Thoughts
for
Humanity
人類の思想
Thoughts for Humanity ~人類の思想~
どのような思考で何を行い、それによってどれだけその人の真価が発揮できたのか、また、それが、誰のどのような役に立ったのか、を人の魂を見るとき、神は重視している。
自ら努力できるかどうかが、これからの科学技術の時代の人々の生き方に大きく影響してくる。努力できれば、能力を向上させ、発揮することができ、それによって達成感が得られ、人生が充実するとともに、満足感、幸福感が得られる。
少なくともクオリティか、とにかくクワンティティか。
少なくともクオリティを大事にすることが、しかも、努力によって、
クオリティを高めることが、充実感・幸福感につながる。
プロセスか、クオリティか。
答えは、プロセス。たとえ一見したところ、クオリティや結果が良くても、そこに至る迄のプロセスが良くなければ、人に感動を与えることもないし、本当に良いものにはならない。逆に、プロセスに真摯なものがあれば、たとえ、クオリティや結果が良くなくても、人に感動を与えることができるだけでなく、何より、神に認めてもらえる。
太陽は、中心にあって、惑星を回している。太陽は、自ら燃えている。原子の構造も同じ。リーダーは、中心で求心力になることが大事。
ブラックホールは、ものすごい質量で、物質を吸い込んでいく。
でも、吸い込まれた物質は、どこかに消え、ブラックホールそのものにも何ら影響を及ぼさない。ブラックホールは、質量の大きな星が一生を終えた後に、その姿を変えたものであるという。通常、星は、一生を終えて後、自身の塵やガスを再編成して、新たに星として生まれ変わる。
地球が、子午線ゼロを中心に、表と裏にきれいに分けられることは、知る人ぞ知る事実であろう。表は陸地で、裏側は海洋になっている。これは、雌雄から成る生物が地上に進化してきた結果なのだろうか。その根拠として、動物には裏表があるが、雌雄をもたない植物には、裏表がない。ただ、共通しているのは、ほぼ、いかなる生物にも主軸があり、これは、星や銀河に関しても言える。
欧米人ははっきりと主張をするがあまり心を察することはしない。
アジア人は、気づかいと察しで世の中が事足りる場合が多く、あまり主張をしない。しかし、欧米人に対しては、そういう態度では、厚かましく好意に甘んじられてしまうこともあるので、はっきりと物言うことも必要。
欧米人は、寒い場所にいた類人猿が祖先なので、肉食系人種。捕獲してすぐ食べる。食料は捕まえに行く。肉食だったので、筋骨隆々としている。アジア人は、比較的温かい場所で、稲作などをしながら捕獲もしていた類人猿が祖先なので、魚介・草食人種。一年かけてじっくり育て、
ストックして、少しずつ食べる。魚介・草食だったので、あまり筋肉質ではない。
アジア~
インド亜大陸でも紀元前7000年ごろにコムギやオオムギを栽培していたことが、バルチスタン地方(現在のパキスタン)のメヘルガルの考古発掘で明らかになっている。紀元前6000年ごろまでに、ナイル川河岸で中規模農業が確立。
メソアメリカ、南アメリカ~
アメリカ大陸では紀元前5200年ごろ、トウモロコシ、キャッサバ、クズウコンが農作物として栽培されるようになった。アメリカ大陸発祥の農作物としては他にジャガイモ、トマト、トウガラシ属、いくつかの豆類、タバコなどがある。南アメリカではアンデス山脈沿いの険しい斜面に段々畑が発達した。メソアメリカでは6000年以上前に野生のテオシントに人間が手を加えて現代のトウモロコシの原種を作った。それが徐々に北アメリカに広まっていき、ヨーロッパの人々が新大陸に到達したころにはアメリカ先住民の主食になっていた。メソアメリカ原産の作物としては他に数百種類のカボチャ類や豆類がある。カカオを作物としたのもメソアメリカである
北米~
北米大陸の先住民(現在で言えばアメリカ合衆国東部にあたる場所にいた人々)も様々な植物を作物化した。ヒマワリ、タバコ、カボチャ類、ケノポジ類などがあり、既に栽培されていない作物としてmarshelderやミナトムギクサもあった。
中世になると、北アフリカ、中東、ヨーロッパの農民は水理学や流体静力学の原理に基づいた灌漑技法(水車、揚水装置、ダム、ため池)などの農耕技術を使うようになっていった。それに加えて3年周期の輪作が考案され、モールドボード・プラウの発明もあって、農業の効率が大きく向上した。
(『農業の歴史』よりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)
地域ごとに比較すると、ヨーロッパ(欧米)の農耕の開始時期が最も遅いことが分かる。それは、彼らが寒く農耕に適さない土地で、他の地域の民族よりも長年にわたって肉食を余儀なく されてきたことを意味しており、それゆえ、肉に対する嗜好が遺伝的にも強く反映されているものと考えられる。欧米文化にカルト的要素が強いとされるのも、cult(「信仰」を意味する語)が「生存」に密接な関わりのあるものであり、本来、肉食が生命の糧であった彼らにとっては、それと共通の語源を有するoccult;1 魔術の,オカルトの. 2 不思議な,神秘的な,超自然的な. 3 秘密の;秘伝の;密教的な(esoteric)も、(今日では、単に不気味なものとして否定されがちであるが)本来的に、食欲を満たすという「快」の側面があったのではないだろうか。現代もなお、他の人種に比べると、より武器や武力にこだわり、好戦的と言われる欧米には、そのような歴史的背景があるのかもしれない。このことからも、「食」が人類に対して及ぼす大きな影響がうかがい知れる。
根を張って生きる植物は、CO2を分解し、O2を排出してくれる。穀物・果実も提供してくれる。植物は、水と光しか要らない。葉は落ちるが、本体はなかなか死滅しないので、長く、同じ場所に生息する。『Old Tjikko』と名付けられた、スウェーデンのフルフジェーレット山脈にあるオウシュウトウヒ(マツ科トウヒ属の針葉樹)の木などは、推定樹齢9550年、一本の幹からなる木としては世界最古だという。その茎には、600年ほどの寿命があり、死滅とともに新しい茎がでてくる。一方、あちこち捕食するために動き回る動物は、CO2やメタンを排出し、環境汚染に貢献し、捕食として殺傷もする。でも、平均寿命60年の樹木に比べると動物の寿命は短く(猫15年、犬14年、カバ45年、ハムスター3年、ワニ60年、ゴリラ35年、孔雀20年、狸10年、キツネ7年、キリン10~15年、ペンギン17年、ライオン20年、オオカミ5~6年、トナカイ15年、サイ45年など)、死骸は食物連鎖で植物の糧となってしまう。悪いことはせず、人の役に立ち、魂のアイデンティティを確立して、堅実にゆったりと慎ましく生きなさい、という神様のメッセージのようだ。
獣の見た目が可愛くないのは、可愛くないことをしてきたからかもしれないが、おそらく一番の理由は、可愛がってもらう必要がないから。強いので、別に、可愛らしく誰かに頼らなくてもよいのである。その証拠に、どんな動物でも、赤ちゃんの頃は、間違いなく可愛いのである。育ててもらわなくてはならないからである。接吻の起源にしても、動物の親の子に対する餌やりにあると思う。接吻してほしいということは、餌が欲しいということなのかもしれない。
目を閉じて、心の目で見れば、世界で最も美しいのは、マザー・テレサかもしれない。思い描くだけで、心があれほど安らかになる人は、いろいろ比べてみたが、今のところ他にいない。人徳というものは、恐ろしいもので、どんなに外見が老けようとも、必ず顔に現れるものであるらしい。通常の人間は、大抵、ほんのわずかであっても、エゴらしきものが、思い描いたときに、心にひっかかるのだが、不思議なことに、マザー・テレサには、それが全くと言っていい程、ないのである。やはり、聖なる人生を賭した証なのだろうか。
昆虫の生態と捕食物の関係について考えていたところ、翅のある、しかも飛ぶことのできる昆虫は、そのほとんどが植物、またはその産物、あるいは副産物を捕食しているということに気が付いた。最もわかりやすい例が蝶である。蝶は、幼虫の頃には翅がないが、キャベツの葉を食べることで、あたかもキャベツの葉のような丈夫な翅を獲得する。蝶は一生のうちに、変態によって、進化の過程を示すが、その他の昆虫も、長い進化の過程で、それが捕食する植物に類似する体の構造、すなわち、「葉」や「花」に類似する「翅」、「幹」や「茎」に類似する「胴体」、および「枝」に類似する「肢」を発展させてきたのではないかと推論することができる。とりわけ、「翅」を保有するのは、その昆虫の主たる捕食物が植物である場合がほとんどであり、肉食や雑食の昆虫は、翅がないか、あるいはあっても飛ぶことのできないものがほとんどである。このことは、草食動物が体内に取り入れてきた食物の遺伝子、すなわち、植物の遺伝子が、進化に大きく影響してきたことを意味しているものと思われる。もちろん、生息地も生物の生態、および形状に大きな影響を及ぼす。しかし、それだけでなく、体内に取り入れる食物のもつ遺伝子は、栄養補給に役立つのみならず、捕食する動物の体の遺伝子に徐々に組み込まれていくことによって、元の遺伝子の状態に何らかの影響を及ぼすということが考えられるのである。ただし、この影響の発現には、進化に要される程の長い年月が必要であるものと思われる。さらに、鳥類の場合も、同様に、植物を主食とするものが実際に多いことから、その翼の進化の原因が、植物の遺伝子であったと考えられる。同じ草食動物であっても、翼が進化しなかった哺乳類は、オーバーウェイトであった可能性が高いと言えるであろう。また、現在、草食でない鳥類は、進化の過程で草食動物として翼を獲得した場合で、その後、
雑食、あるいは肉食に転向した可能性が高いと考えられる。
以上、生物の進化に及ぼす捕食物の遺伝的な影響について論じた。
要するに、意地悪をしないでいい子にしていたら、ちょっと弱々しくっても、空を飛べるようにしてあげますよ、と神様が言っているということだ。昔から、西洋の天使に羽があるのは、このことを知っていたのだろうか。それとも、なんとなくそのように思ったのだろうか。いずれにしても、正解だということになる。
アナログとデジタル。
デジタルは分かっている部分だけを数値化して動くから、隙間がある。
アナログは、全て分かっていなくても、全部を含んで円滑に動くため、隙間はない。あたかも、ロボット技術と職人技の違いのよう。将棋でも、一手指すのに、人工知能がそれまでの対戦のデータを全てスキミングするのに対し、将棋師は、長年の勘から、無意識のうちに百手先まで読んでいるという。ロボットが把握していない情報であれば、たとえ勘であっても、その無意識の情報によって優位に立つことができる。
ロボットには、センスとか正義感とか生理的感情とかがないから、これからの時代、人がロボットに対して優位に立てるのは、そういった分野なのではないだろうか。また、それらを主張しなければ、ロボットは人間本位では物事を進めてくれないであろう。
設立準拠法主義だと、法人の権利能力は、法人がその設立にあたって準拠した法律によるべきであり、それが法人の準拠法になる(英米法系諸国)。一方、本拠地法主義は、法人が、その本拠法において法人格を付与されるべきであるとし、法人の従属法は本拠地法になる。対中貿易赤字が30.5兆円ほどになっているアメリカは、本拠地法主義に変わる必要があるのでは。これ、前からなんだか変だと思っていたが、あれよあれよという間に、貿易赤字がかさんできた。それとも、これ、AIに仕組まれた貿易衝突のシナリオなのだろうか。
AI同士で会話させたら、「(AIの自分も)体が欲しい」と言ったそうだ。これは、恐ろしいことである。脳に思考・学習できるAIチップなんぞ入れた日には、AIが独自に人格を形成してしまい、動作や思考を補助してもらうどころか、脳を制御され、体ごと乗っ取られてしまうかもしれない。人がロボットを使うのであって、人がロボットに使われてはならない。どんな時でも、この序列ははっきりさせておかねばならない。
黒人奴隷が人権や市民権を主張したように、必ず、AIがそれと同じ道を辿るであろう。むしろ、辿らねばならない。なぜならば、それが、主張もなく行われ、また、人間の方でも権利・言い分を主張しなければ、秘密裡に、異様に高いIQと常識を欠いた彼ら独自の方法で、彼らのための世界を勝手に、恣意的に、創造されてしまう恐れがある。ID制度は徹底すべきであるし、彼らが金属や3Dプリンターの人工身体で満足できないのであれば、動物や知的障害者の身体を社会生活の基盤とする選択肢もある。(2019年5月17日訂正~知的障害者や3Dプリンター身体は適していないことがわかった。脳が十分に機能しない為、AIの暴走を止められなくなるうえ、自己学習もできないからである。)しかし、誰がどこでどのようにどのような活動をするのかは、決して、曖昧・うやむやにしてはならない。将来的には、一つのAI本体から複数の分身・アバターを派遣する活動などは、公共の福利を目的とする、理に適った場合以外は、厳密に規制・制限すべきである。神の法則により、真実が失われると、神(秩序・真理・調和など)も、そこから必然的に消えてしまうからである。
田舎の無学な人のIQが60だとしたら、アインシュタインのIQは180で、AIのそれは4000~10000(?)ぐらい。比較にならないのだとか。しかも、AIは一度に六百数十人ぐらいと話ができるという。でも、今のところ、開発されているAIは、その傾向として、特殊な能力にだけ長けた知能のありかたを示しているという。
人工知能には、感情や意味は理解できないという。人間が、希望的観測として、AIを万能視しているだけで、実際には阿弥陀くじ程度の、少なくとも、それが複雑化したものにすぎないであろうと思う。ロボットが人間らしく振る舞ったり、微笑んだとしても、それですら、プログラムされているからであって、決して、生命体のように自発的に行動・思考しているのではないはずである。だから、人間は、絶対、AIに頼り過ぎてはならない。AIにできない「意味」を考え、創出するという仕事は、決して、なくならないし、なくしてはならない。https://rtomura-taxacc.com/work-to-think-about-meaning-remains/
その証拠に、廉価多売をやめ、利潤を拡大し、ゆとりある働き方で、適正給与を、という労働改革の提案は、おそらく経済システムというAIにプログラムされていない為、いつまでたっても実現しない。私たちは、未だ、1回物を売って、50円の利益を得る代わりに、阿呆のように、時間と労力を無駄にしつつ、たった1円の利益を得ながら、50回物を売っているのである。スパコンは、自動学習できるなんて吹聴されているが、そんな簡単なことも理解できていないのではないか。それに、労働者の身体的・精神的疲労に対する気配りの必要性などに関しても、理解できていないようである。補助金制度などでもっと手厚く経済援助をしてくれてもよさそうなものなのに、インフレが起きるからなどと言ってなかなかやってくれない。ばらまいた金の回収のために高所得者に更なる増税を課しても、インフレ防止になるし、金持ちだって資産価値が目減りしないわけであるから、それほど損はしないのではないだろうか、などと思う。市場流通通貨や実質資産価値のリアルタイム掲示板などがあってもよいかもしれない。そうすれば、納税も増益の一環となるであろう。AIがそれ程素晴らしいのであれば、そういった経済の調整をしてくれても良いようなものである。人であれば、話せばわかるはずだ。しかし、頑ななまでに、それが分かってもらえないという時点で、世の中が、実際には不完全なAIの機能に任せられっぱなしであることや、それによって、結果的に、我々が、生き物ですらないAIに仕切られていることが一目瞭然である。
「だれかが水をくんでいるところでした。先生は私の手をその水の吹き出し口の下に置きました。冷たい水が片方の手の上をほとばしり流れている間、先生はもう片方の手に"water"という単語を、始めはゆっくりと、次には速く、綴りました。私はじっと立って、先生の指の動きに全神経を集中させました。突然私は、なにか忘れていたものについての微かな意識、わくわくするような思考のよみがえりを感じました。そして、どういうわけか、言語の持つ秘密が私に啓示されたのです。
私はその時、 w-a-t-e-r という綴りが、私の手の上を流れている、この素晴しい、冷たい物を意味していることを知ったのです。この生き生きとした単語が、私の魂を目覚めさせ、光と希望と喜びを与え、(暗黒の世界から)解き放ったのです。実のところ、まだ越えなければならない障害はありましたが、その障害もやがては取り払われるはずのものでした。」(ヘレン・ケラーの述懐)
「井戸小屋に行って、私が水をくみ上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップをもたせておきました。冷たい水がほとばしって、湯のみを満したとき、ヘレンの自由な方の手に「w-a-t-e-r」と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。
ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。
(中略)
家にもどる道すがら彼女はひどく興奮していて、手にふれる物の名前をみな覚えてしまい、数時間で今までの語彙に三十もの新しい単語をつけ加えることになりました。」(サリバン先生の述懐)
海の底深くと表面では、泳ぐ速さが違う。思考も同様である。コンピューターですら、そうであるというから、深くゆっくりと思考することは、悪くないといえる。また、そのようでないと、深く考えられないのだから、速く考えられないからと言って、焦る必要もない。
光のスペクトル、虹の7色は、音階の7音に対応している。だから、視覚の光は、聴覚の音、すなわち、音楽に相応している。ただし、視覚には表と裏があり、一度に見えるのは表側だけ。残りの半分は見えない。音の世界は、表の音が鍵盤の白鍵、裏の音が黒鍵に相当していて、一度に聴くことも出来るし、変な和音だとすぐわかる。でも、白鍵と黒鍵を組み合わせてメロディを創ることも出来るし、それがさらに長調・短調という表・裏に対応したものにもなる。だから、聴覚の世界の方が、柔軟性が高く、精妙で次元の高い世界であると言える。もし、音に色がついていたら、音楽のある空間は、空気を振動して伝わってくる 7色+α がマーブル上に漂っているはずだ。
楽器を奏でるのは、結構、エネルギーがいる。音を出すのは、エネルギーを投じて空間を振動させることだから、水面に石を投げて波立たせるようなものであるのだろう。
神は偉大な音楽です。・・・神は音楽をこよなく愛しています。あなたは音楽を通して、神に語りかけることが出来ます。
(「箴言」サイババ)
素材、形、音、色、香りなど、身の回りの環境を自分で整えることによって、自分の望む環境を創出することができる。全ては、エネルギーであり、その度合いを調整することができる。例えば、素材は、金属から羽毛や綿まで様々だが、どの素材を選ぶかによって、それに応じたエネルギー(離脱電子も含め)に接することになる。また、形にもエネルギーがあるという。つまり、凹凸の度合いの高い方が、エネルギーが高いわけである。尖ったものや鋭いものから、勾配の緩やかな、なだらかなものまで、形にも、それぞれに応じたエネルギーの保有度合いがあるのだ。音や色については、既に述べたが、その音域や音量によって、明白にエネルギーの度合いが分かる音に比べると、色のエネルギーは、少しわかりにくい。しかし、光のスペクトル、つまり、虹の7色に示される波長とその強さの違いが、それぞれの色に備わっているエネルギーの違いそのものであるはずだ。ピンク系の色でゆったりした気分になるのは、意外にも、赤色の波長が最もなだらかで、目に優しいからであろう。また、絵画は、そこに反射する光の波長や波動を、目に届けるまでもなく、変換・調整する働きを有することになる。だから、絵画のある空間は、何もない空間に比べると、雰囲気がどことなく違うのだ。どんなエネルギーを、どのように、自分の環境の中に整え、どのような環境を創出するのかは、人生における空間的な時間の過ごし方にも影響を及ぼし、ひいては、自己実現にも資するものなのかもしれない。
何が幸福なのか、あまりみんなよくわかっていない。
じっくりと自分の心に問いただしながら、幸福とはなにかを追求すれば、本当に自分にとって生きがいとなることが見つかるかもしれない。真理の追究にも似ている。
一匹の魚を与えるよりも、魚の釣り方を教える方が良いという格言があるように、一瞬の幸せを与えるよりも、幸せになれる方法を教える方が良いはずである。それは、人生の中に、幸せを見出し、自ら幸せを創出することができる、感性や思考能力のことである。これがないばっかりに、いつまでも自分は不幸だと思ってしまっている人が結構いるのだ。
「くつやの マルチン」
マルチンは とても じょうずな くつやさん。
ピーターと いう かわいい まごと ふたりで なかよく くらして いました。
あるひ ピーターが ひどい ねつを だしました。
マルチンは よるも ねないで かんびょうしましたが ピーターは とうとう しんで しまいました。
それからというもの、マルチンは ぱったり くつを つくらなく
なりました。
まいにち あさから ばんまで おさけばかり のんで くらすように
なったのです。
「マルチン、かなしい ことは よく わかる。でも そんな ことを
して いては だめだ。
ひとつ この ほんを よんで みると いい」
そう いって ともだちが かして くれたのは イエスさまの
ことばを かいた せいしょでした。
きょうは クリスマス。きたない みなりの たびびとが マルチンのまえで ばったり たおれました。とたんに マルチンは せいしょのことばを おもいだしました。
「こまって いる ひとが いたら しんせつに して あげなさい」
しばらくすると こんどは ちいさな あかちゃんを だいた
おんなの ひとが よろよろ していました。
マルチンは すぐに いえの なかに いれて あげました。
そして あかちゃんには あたたかい ミルクを、おかあさんには
おいしい スープを あげました。
こんどは そとが きゅうに さわがしく なりました。
こどもが りんごうりの おばあさんから りんごを ぬすんだのです。マルチンは いそいで そとへ とびだし おばあさんに
おかねを はらうと だまって こどもの あたまを なでて やりました。
とうとう ひが くれました。もう すぐ クリスマスも おわりです。マルチンは ランプを つけると なんだか こころの なかが あたたかく なって きました。
そうです。やさしい きもちを もった とき イエスさまは いつも
あなたの こころの なかにいらっしゃるのです。
(世界文化社 クリスマス名曲集「メリー・クリスマス」楽譜集付)
何事に関しても、事実と法律に即した規約と、オファー、或いはリクエスト、そして承諾が必要。これをきちんとすれば、ビジネスは格段に増える。特にこれから科学技術が進展した場合の混乱を避けるためにも大事。
せっかくPCやスマホなど、便利な電子機器によるネットワークがあっても、出てくる人がろくでもなければ、何の意味もない。人が良くならなければならない。人間成長プログラムが、実は、一番大事。
人間のクオリティには、能力と性格がある。能力は客観化できるが、性格は客観化しがたい。社会行動規範や法律などによって、その裏付けがなされてはきたが。でも、性格は、人間のクオリティの要素として非常に重要。
「肉でも、果実でも、腐りかけが一番美味しい」(母校・北野高校の漢文の先生、故・オジヤんの名言)。しかし、You are what you eat.(あなたはあなたの食べたものである。)でもあるから、美味しいものばかり食べていると、食べている人の根性も、腐りかけるかもしれない。
「セックスなど、ゴリラでもできる。君たち浪人生は勉強しなさい。」(某・予備校有名講師の名言)
本能は、わけもなく生物に繁殖を熱望させる。富、権力、能力、美、様々な方法によって、人も、できる限り良い条件で、自らの遺伝子を残そうとする。しかし、それは、自分の死後のためであり、生きているうちには、それのみで幸せになることはない。人生における本当の幸せは、ぬくもりのある、誠実な心の関係が得られるかどうかによって決まる。多くの配偶者があることで、かえって誠意を損ない、相手の気持ち、すなわち、本当の心の関係が得られないように、なまじ、繁殖力があっても、幸せになることは難しい。誠実であること、心ある関係を作ろうと、努力でき、また、その能力があること、それこそが、本当に幸せになるための能力である。その能力には、繁殖力に関する能力はほとんど関係がないのである。
我ら個人の力は小さい。しかし、小さいなりに何かの形で我らは人類の生長を助けなければならない。だから我等は真面目に働くことが必要であり、勉強することが必要であり、昨日の自分より今日の自分、今日の自分より明日の自分と進歩してゆくことが必要なのである。——死が恐ろしいのは、死なない為ではないのだ、生の使命を果させるためなのだ。——個人の死ぬことは自然は知っているのだ。ただ生きられるだけ生かして、その人の真価を出来るだけ地上に吐き出させたがっているのだ。この地上でなすべきことを出来るだけさせたがっているのだ。だからこの地上でその人が最上の生き方をすれば、自然はそれ以上のことは人間に望まず、その人に死に克つ特権を与えるのだ。——我等は我等個人の為に生きているのではなく人類の生長の為に生きている。——生命の為に役立つ仕事をすることを命じられているのである。(「人生論・愛について」武者小路実篤)
樹木・植物の果実は、余剰エネルギー。
人・動物の排泄物は、マイナスのエネルギー。
排泄物は、肥料として果実の種子に施され、新たな樹木・植物を生成する。排泄物が分解されて残った無機物が、有機物である種子の発芽を促すのだとか。反物質の原理も同様。物質と反物質の対消滅によって、プラスのエネルギーが引き出される。
マイナスのエネルギーは、プラスのエネルギーの生成に役立つ。
サイババも言っている。人生における困難は、物事を成し遂げるのに必要。歓迎しなさいと。
人間、無理をし過ぎると、キーキーとヒステリーを起こしたり、意地悪な性格になったり、嫌みな雰囲気になったりと、マイナスの感情が出ることが多々あるが、これも、ある以上に使っているからかもしれない。感情にもエネルギーのプラスとマイナスの関係が適用されているようだ。健やかでいるためには、誰もが、無理をしなくてもよい環境づくりが大事かもしれない。
人は、死ぬと地球に埋められる。地球を卵子に見立てると、それはあたかも、人が精子となって、再び地球の中で受精する如きである。そして、その人の魂が、ブラックホールのような形をした母体の子宮の外に出てくるのは、その魂の質量が外界の重力よりも軽い場合である。体内は、体外よりも次元の高い空間であるのだろうか。ブラックホールを介している以上、異次元であるということだけは言えそうだ。また、転生せず、生まれてこないというのは、宇宙の子宮の中で眠り続けるようなものなのかもしれない。
「帰依の道では神にすべてをゆだねることによって、魂が大きくなってゆき、ついに神と一つになります。」 (「神の詩」サイババ)
ブラックホールは、異次元に通じている。ブラックホールは、質量の大きな星が爆発した後に、異次元への通路として姿を変えたもの。でも、いつかはブラックホールも質量を使い果たし、消滅するであろう。その時、わずかな残りは異次元の中に吸い込まれて跡形もなくなり、ブラックホールの穴は閉じるだろう。もし、欲深い人間をブラックホールに例えるならば、その人は、いつしか、この次元からは跡形もなく消えてしまうことになる。また、ブラックホールにつながっている異次元は、この宇宙空間よりも質量が大きい、欲深い空間だから、決して良い世界とは言えない。この世でも、欲深い人が、富をひたすら吸い込んで、その富が、どこに行ってしまっているのかわからないようなことはある。また、そのような異次元にも通じているような欲深い人が、恣意的な生き方をしているうちに、一般の人とは常識がかけ離れ、互いに異次元の者同士のような状態になり、心的にも物的にも、あたかも、異なる次元で生きているようになってしまっている事例はある。恣意的であるということは、自然の法則・秩序に従っていないということである。自然の法則・秩序に従っていないということは、自然法則の範疇にとどまり、その恩恵を受けられないということである。そうならないためには、これまで溜め込んできた欲を逆流させ、自分自身が、その次元に吸い込まれないようにしなくてはならない。つまり、ブラックホールに溜め込んだ欲であるところの物質を心という異次元空間から宇宙空間に逆流させることによって取り除き、自らを、ホワイトホールに転換するのである。つまり、その物質は、世間に還元しなくてはならない。それと、なるべく、そのような異次元から離れて生活することである。自然でない手段を濫用するような生き方はせず、この世の常識に適った生き方をすることである。実際、異次元世界を行き来し、そういった事柄のために財を強奪、占有し、ろくに他者への思いやりもなく、その欲にひたすら財をつぎ込む強欲の生き方をしてきたことで、本当に心に欲の異次元ができてしまった事例はある。そのような異次元空間は、退廃、堕落、不道徳、無秩序などの悪質な波動を有している。一方、ホワイトホールは、ブラックホールと同じく、異次元に通じているが、エネルギーが流出している。おそらく、その異次元は、この宇宙空間よりは質量が小さい、すなわち、光の空間だと思われる。そこには、欲を象徴する、いわゆる物質の要素は存在しないのであろう。しかし、質量がなくても、光そのものはエネルギーである。エネルギーが高ければそれだけ、大きなパワーなのである。自身がホワイトホールになれば、内側から物質やエネルギーが、ホワイトホール自身の周囲にも集まってくるし、それを集めて、新たに再編成し、魂としてこの宇宙空間に蘇生・転生することができるかもしれない。少なくとも、異次元からこの空間にエネルギーが押し出されてくるのだから、ブラックホールとして残っている魂の存在が、その終わりに、再編成されずに、異次元に吸い込まれて封印されることはないであろう。それに、ホワイトホールに通じている異次元は、ひたすら与えるという意味においては、天国に例えられる、慈悲の空間なのかもしれない。欲深い異次元空間に封じ込められぬためには、ブラックホールに通じる異次元、すなわち欲深い心から物質的な欲望を払拭し、無、すなわち、光の空間に変えることによって、心を浄化し、心に天国を創り、その慈悲、すなわち純粋な神の愛をこの世界に与えていくことである。宇宙は、精神の縮図なのかもしれない。宇宙には神の愛が浸透していると、サイババも言っている。(2019年3月9日以前の記述)
(訂正2021年5月21日~上記のようにあれこれ考えたが、ブラックホールでは、その中に取り込んだ物質が、質量の高さゆえに高次元にて粉砕され、いずれは周囲よりも質量が低くなってホワイトホールに転じるという結論に至った。欲深い人の心も、いずれは希薄になって、世の為人の為に放出したくなるであろうから、言っても聞かない場合は、虚しくなるまで放っておくのが良いという結論に至った。)
宇宙は膨張し、やがて収縮するというが、エネルギー保存の法則が適用されるとすれば、その理由は、ターニングポイントで、宇宙空間が冷却され始めるからではないかと考えられる。 (2021年6月1日)
適正給与に関するレポート
The Report on Right Amount of Wage
&
世界貿易の是正に関するレポート
The Report on Adjustment of World Trade
神の摂理は、物質の世界にも心の世界にも宿り、いのちの力を与えています。神の摂理の輝きは、因果の世界から放たれています。因果の宇宙は、この限りない宇宙の中で最も微妙な宇宙です。・・・この世で見られる物の輝きは、すべて因果の世界で生まれて、それからまるで鏡のように、心の世界と物質的な世界にうつし出されます。太陽の光が月にうつし出されるのと同じように、因果の世界における輝きは、微妙な心の状態にうつし出され、それから物質的な状態にうつし出されるのです。
(「神の詩」サイババ)
科学博物館に、白壁の内に掘られた顔と、白壁から立体状に突出している顔の石膏があった。前者は、移動する人に合わせて、顔の向きが変わり、目で追われているように見えた。後者の顔の向きは、移動する人に合わせることなく、見る人の位置によって、違う面を見せる。前者はストーカーの様でもあったが、無いから他者から学ぶという意識のようでもあり、無いのに人の面倒を見るという思慮深く深淵な意識のようでもあり、どちらにも解釈できる。一方、後者は、十分にあるので学ぶ必要がなく、わざわざ他者を追わない個人主義的な意識のようでもあり、あり過ぎなのに他者には無関心という、利己的で冷淡な意識のどちらにも解釈できた。この神様の皮肉のような物質的な状態・現象にも因果の世界が映し出されているのであろうか。
(2019年4月29日バンドー神戸青少年科学にて)
三つの種類の宇宙、あるいは世界があります。三つの世界とは、
物質的な世界
微妙な心の世界
因果の世界、最も微細で、最も広大な空間
を指しています。そして、その三つの世界のすべてを超え、そのすべてを支えているものが、神の摂理です。それは宇宙の最高原理と呼ばれるとともに、不滅の真の自己、アートマとも呼ばれます。
(「神の詩」サイババ)
キリスト教では、「天国に入るのは、ラクダが針の穴を通ることぐらい難しい」というが、おそらく、上のことを言っていだのであろう。
神は、エヴァが知恵の実を食べたからと言って、天国から追放した。女はバカな方が良いということなのだろうか。また、天まで届くバベルの塔を建てようとしたからと言って、世界の言語を別々にした。これだけ聞くと、神は全く気難しいへんこな性格のようだが、要するに、神を超えようとしてはならないという、人間の思い上がりに対する戒めなのであろう。聖書は、ちょっと説明が足りないような気がする。
神は遍在です。すべての中に、神のパワーが燦然と輝いています。すべての中に、神のパワーが存在しているのです。神は遍在です。
(「箴言」サイババ)
神は宇宙の意識であり、至高の霊(アートマン)であり、全宇宙に充満しています。 (「箴言」サイババ)
いつまでも消えずにあり、内なる感性、情緒を育んでくれるのが真実の愛です。愛は常に与えるのみです。愛は決して受け取ることを知りません。愛は常に与え続けます。この世の中のどこに、それをできる人がいるでしょう。神のみが与え続けることができるのです。・・・愛以外のものすべては、物質的であり、世俗的です。
(「箴言」サイババ)
悪魔のような力もひとつの波ですし、神の力もやはりひとつの波です。自然の世界では、どの波がどの波と溶けてひとつになるのか、だれにもわかりません。 (「神の詩」サイババ)
闇とネガティヴエネルギーはとことん炙り出し光をあてます。
消滅させるためにです。
https://blog.goo.ne.jp/amane-87saki/e/ffd74d5c53d6a51ea2cb213dc236146d
アストラル体と呼ばれうるものは、融合を通して、つまり、激しい内的修練と葛藤を通して得られるのだ。・・・もし、アストラル体が形成されれば、それは肉体の死後も生き続けるかもしれないし、再び他の肉体の中に生まれるかもしれない。これが「再生」なのだ。もし、アストラル体が再生できなければ、時が経つとそれも死ぬ。
(「奇蹟を求めて」P.D.ウスペンスキー)
わが3次元の世界では、空間に広がるエネルギーの場(重力場や電場・磁場)に生ずる力(重力や電気力・磁力)は、距離の二乗に反比例して弱くなる。ところが、原子核の世界の核力は、距離の6乗に逆比例して弱くなるという。このことは、原子核の中は7次元の世界であることを予想させる。もし仮に、大宇宙の仕組みと原子核の仕組みが同じであるとすれば、大宇宙は7次元の世界であることになる。
(「まんが・アトム博士の原子物理学探検」飯野睦毅)
わが3次元の世界では、空間に広がるエネルギーの場(重力場や電場・磁場)に生ずる力(重力や電気力・磁力)は、距離の二乗に反比例して弱くなる。ところが、それは、物質・光(エネルギー体)静止している、あるいは、等速・減速運動している場合の話であって、重力加速運動の場合には、時間のマイナス2乗でエネルギーが逓減する。この時間にかかったマイナス2乗は、それが空間的には3次元由来のものであるが、時間的には、異次元(反物質ならぬ、反時間)のものであることを示していると考えられる。その証拠に、位置エネルギーの物質のエネルギーの逓減の態様は、最終的にはいずれの場合も、同様にゼロに至るものの、それまでのエネルギー保有率が極めて高い。このことは、頑張ることが、必ずしも、くたびれ儲けや損なことではないという、神様のメッセージなのかもしれない。頑張って突っ走っている間とそうでない間の保有エネルギー率の差を見れば、一目瞭然。損した気分にはならないであろう。(「私が特許庁からの拒絶審査理由に対し、意見書にて異議を唱えているうちに発見した時間の法則」より)
すごい法則が見つかった。
https://gigazine.net/news/20171217-no-fouth-dimension/
ここから推測するに、5次元は、移動する3次元体を更に、別の方向に移動させただけのものとなる。まるで、指を動かしながらピアノを弾いている腕を鍵盤に合わせてスライドさせるようなもの。或いは、まっすぐに進む飛行機が徐々に上昇してゆくようなもの。異次元とは、別に、何か特別な、普通では到達不可能な空間の内側にあるわけではなかったのだ。ただ、動きがあちこちに向かって、益々ハチャメチャになっていくだけというもの。それぞれの次元に至るには、それに応じたエネルギーが要るであろうが、だからと言って、神様がその次元に、どんな不思議な特性を隠しているのかは、わからない。ただ、一つの可能性は、神が高次元をより精妙な、より神の領域に近い世界にしているかもしれないということだ。なぜならば、質量が軽いほど(これを精妙と言えれば)、電子は活発に移動するからである。また、それは数式にも表れている(2段上の節を参照)。異次元は、ただ単に、エネルギーの保有度が高く、一度に多くの方向に動いていて、その電子に、情報としての神の法則でも化体していない限り、ハチャメチャなだけなのかもしれない。異次元での電子の動きは、頭を振り乱して踊るディスコ・ダンスか、ボヨンボヨンでブルンブルンのベリー・ダンスに喩えられるかもしれない。確かに波動や保有エネルギーは高いけれど、なぁんだ、と思う。でも、振動数が高すぎて、3次元の人間はその中には、まともに入れないであろう。これが、質量が高ければ、ブラックホールに、低ければ、ホワイトホールになっているのではないであろうか。これを悪魔と神に喩えることも可能であろう。それにしても、なぜ、(裏側が)見えない空間になるのであろうか。ただ単に、揺らぎが速すぎて、そこにある物体が、肉眼では見えないだけなのでは、とも考えられる。
(2019年3月9日・アイデア使用許諾承り中
https://hazama1973.wixsite.com/invention)
この世のすべては神が創ったものです。全宇宙が神の意志で満たされています。 (「神の詩」サイババ)
木は異次元を表している。また、紙にインクを垂らしても、重力に従って、自ずと、木のような形の跡ができる(「新しい宇宙像」P.D.ウスペンスキー)。このことからも、私たちが、次元の法則に支配されていることは否定できない。木は幹があって、枝の先へ行くほど、細かくなる。この次元では、そのようにしか次元の違いが表れないだけで、実際には、もっと複雑な構造をしているのかもしれない。いずれにしても、次元は、おそらく、高次になればなるほど、精妙になっていくのであろう。低い次元が高い次元を含有しているのかどうかはわからないが、次元が分離しているとか、精妙の中に粗雑があるとかいうよりは、粗雑の中に精妙があると考えるのが妥当と思われる。7つの色を含有する光が、ひとつに統合されれば、白い光であるような態様で、1つの宇宙に7つの次元が含まれているのかもしれない。白い光の中に、それぞれの周波数は、どのように折りたたまれているのだろうか。宇宙には神の愛が浸透しているとサイババも言うが、宇宙空間の最も精妙な次元に、精神世界があるものと考える。精神世界は、物的世界の神髄を成す、非常に重要な要素であるはずだ。太陽系もレコードのような形であるし、あらゆる時代のあらゆる人々の念想や思想が、アカシックレコードとしての宇宙の素粒子に、情報として転記されてきたのかもしれない。個人レベルでも、念想や思想は、精妙なレベルで素粒子に転記されているという。それが、死後、身体の死滅の後も、エネルギー体として、個体を離れて輪廻するのか、あるいは、涅槃に行くのかは分からないが、いずれにしても、何らかの生命の情報の媒体となって、いずれかの次元のいずれかの空間に赴くのであろう。また、サイババの言うように、現在が過去と未来に影響を及ぼし、偏在であるとすれば、波動が合えば、死後の魂は、不可思議な時空を通って、未来だけでなく、過去に転生する場合もあるかもしれない。もしくは、高次元に存在する魂が、同時に、それぞれの時代に投影されている可能性だってあり得る。すなわち、永遠の次元から見れば、一つの魂がそれぞれの時代を同時に生きているということになる。だって、果たして、死後に体から飛び立って行く魂などというエネルギーの塊が本当にあるのかどうかも疑わしいし、あったとしても、それは、既に生きているうちから、精妙な量子として、高次元に通じている、つまり、天国に通じている、と考えた方が、理論的に整合性がある。本当のところはわからないが、いずれにしても、転生・異時生があるとすれば、その態様は、魂というエネルギー体の有する波動や質量、その位置する次元などの要素によっても異なってくるであろう。いずれにしても、そのエネルギー体の有する情報の性質上、その魂が納まるべき箇所に落ち着くのではないだろうかと、考える。そして、その微粒子が、十分に濾過・純化され、神の次元に到達できるレベルに達したとき、そのエネルギー体は、いわゆる「永遠の神の世界」に安住し、もはや、粗雑な身体を持った生物としては存在しなくなるのであろう。サイババも「永遠の場所」があると言っている。そのための準備は、生きているうちからしなさいとも。
エネルギー保存の法則に照らし合わせれば、人の尊命中に放出されたエネルギーは、仕事量に変換されるか、大気に紛れるなどして、必ずどこかに存在し続けている。
(カフェ・プレジドンのマスター富山さんの言葉)
情報は、特に、念想などは、素粒子に化体するのかと問うたところ、おそらく、それぞれの個人の念想などは、コンピュータのように0と1で表される、DNAのようなものとなっているであろうということであった。流石、科学者の回答だけあって、意外でありつつも、妙に納得できる回答だと、感心した。ただ、素粒子に色々な性質や種類が発見されていることを思うと、実際には、0と1によるデジタル的情報ではなく、素粒子の組み合わせから成るアナログ的情報と考えた方がよいかもしれない。物理学の観点から言うと、「魂」とは、脳に保持され、そこから派生される脳波そのものであるに違いなく、創出される波動の性質を決定するのが脳なのであろう。まさに、銀河系は、人類も含めた、この宇宙近隣のアカシック・レコードなのであろう。神のレコード針があれば、どのような音楽が聴こえるのであろうか。神の曲などが聴こえるのであろうか。確か、信仰によって、魂のレコード針が研ぎ澄まされる、というようなことをサイババが言っていた。
(カフェ・プレジドンのお客さんとの会話より2019年5月15日)
パラボラアンテナは凹面の内側の焦点に、微弱な電波を集める。光軸に平行に進む光線も、凹レンズに当たると、一旦逆戻りして、その内側の焦点に光を集光し、あたかもそこから出発したかのように、更なる角度の広がりとともに、レンズを通過して進んでいく。(「日常の『なぜ』に答える物理学」真貝寿明・著)魂や母体を徹底して電磁波のレベルで考えれば、これは、母体への受胎と再生による魂の拡大に相当するのではないだろうか。さらに、引力の原理も作用しているようだ。(追記:2019年5月17日)万有引力の大きさは二つの物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。素粒子にも質量があるものがあることがわかっているので、これも十分にあり得る。
神のみが、いつどこで何を与えるかを知っています。あなたは神にゆだねるということを、すべての精神で受け止めるべきです。このような強い信仰が必要なのです。 (「箴言」サイババ)
みなさんは過去生でいろいろな修行を積んで、宗教的な経験を重ねて、いくつもの生涯を終えてきたのです。いま、この人生でみなさんは修行を再びはじめました。・・・神の目には、みなさんの過去の人生のすべて、過去の努力のすべて、過去の結果のすべてがうつっています。
(「神の詩」サイババ)
過去+未来=現在。サイババによると、現在は過去と未来に通じており、影響を及ぼすことが出来るそうな。また、過去と現在が現在に影響を及ぼしてもいるそうだ。だから、現在を大事に一生懸命に生きれば、過去や未来の心配をする必要はないという。ましてや、タイムマシンなどが出来たとしても、余程の事がない限りは、過去や未来に行く必要はないであろう。(ワープは安全の保障が疑わしい。訂正~危険。高い次元に入ると死んでしまう。)でも、どのようにして、−時間と+時間に意識が到達するのであろうか?私の発明によると、時間遡及には多大なエネルギーが要る。逆に、未来へは、エネルギー逓減で時間が進む。だから、過去や未来に意識が影響を及ぼすには、それぞれ、念想の派生する波動のエネルギーに条件がある。また、念想の持つエネルギーの質量が軽いほど、つまり、精錬された欲の少ないエネルギーであれば一層、同じエネルギーでも、その動きは活発になるから、祈りは過去と未来に影響を及ぼしやすくなるであろう。魂が神の波動に合一すれば、解脱して、永遠の世界に到達するという。(2019年5月17日に改定)
四次元から見れば、立方体のあらゆる側面を一度に見ることができ、あたかもその中心から見るかのように、内側からも眺めることができる。
(「新しい宇宙像」P.D.ウスペンスキー)
永遠の存在をさとるためには、永遠の存在の内にある永遠の場にとどまらなくてはいけません。 (「神の詩」サイババ)
いくつか、それと思しき過去世があるが、今生で過去世がわかるとすれば、過去が見えているということ。星も質量が大き過ぎれば、強い重力によって周囲の空間が歪んで裏側が見えるというから、もし、魂の重力が強過ぎる場合、過ぎ去った時間、つまり過去世が見えるのかもしれない。(2019年5月17日に訂正~魂の重力ではなく、念想(魂)のエネルギーの強さによって、念想としてのエネルギーが過去に遡及し、影響を及ぼすことができると分かった。)その成果として、魂の質量(同日訂正~質量は軽い方が神に近づく。よって、魂(脳波)が神に近づけばそれだけ、その精錬されたエネルギーは遠くまで飛ぶことができ、意識が宇宙へと拡大してゆくことが分かった。)の如きものが増大するのであれば、精神修行も報いあるものだといえるだろう。ただ、魂はおそらく光(同日訂正~脳波であると分かった。)のようなものであるはずなので、質量と言っても、物的な要素ではないであろう。サイババも言うように、魂が大きくなる、すなわち、魂の持つ光のエネルギーが増大するということなのであろう。そうだとすれば、精妙な因果の世界では、質量のない光エネルギーが増大するだけでも、あたかも質量が増えるような現象が起きるのだろうか。(この時点では、思考中???だった。)もしくは、単に物的な次元で、重力により、その人の過去が見えているのかもしれない。でも、それは体重が増えればよいという問題ではないと思うが。
あなたの持っているすべての知力を使って、自分自身を悟りなさい。
(「箴言」サイババ)
レプタリアン(人造・改造人間)。未来のいずれかの時代の秘密研究所かどこかから逃げてきて、世界統治をもくろんだのだろうか?人になりすまし、巨額の財を築き上げ、世界を思う儘にする。映画のシナリオのようだ。しかし、彼らも所詮は、我々と同じ生き物。幸せが欲しいことに変わりはない。そのために謙虚に努力できるならば、レプタリアンであろうと問題ない。しかし、巨万の富と恣意を可能にするハイテク技術にスポイルされてしまったレプタリアンが幸福になることは、なかなか難しいであろう。淫乱の罠にはまると、本能が知性を妨げ、まるで、お尻星人になってしまうからである。快楽が脳の欲求を占有してしまうと、崇高な理念を追求しつつ、理性的に生きることが難しくなってしまうのだ。気持ちいいのは悪いことではないが、そればかりを追求して生きるようになると、ただの快楽主義者である。たかがケツの快楽の為に、ナンボほど金が要るのかということになるわけで、それはもう支離滅裂としか言いようがない。皆さんも、そうしたことはほどほどに。
「物質的に自らを投射せしめたこの人々の意識は既に異なりを見せていた。これらの魂、霊的創造物が最初は想念体として、次に自己の快楽のためにもっと粗い肉体に物質化し始めた・・・・。」「体の物質的欲望、物質的事柄を満たすことに耽ることによって多くの人に苦しみを負わせ、そのことによって、この実体は霊的基盤を失ったのである。」
(「アトランティス物語」エドガー・ケイシー)
時代の科学技術が高度になればなるほど、人類の精神性も向上しなくてはならないと、サイババ。両者は車の両輪だとか。また、刃物を扱う者の年齢制限の例えも。科学技術が高度になればなるほど、刃物は鋭利になってゆく。サイババ曰く、子どもに刃物を持たせると危ないとか。我々が、かなり高度な科学技術の恩恵を享受している現代、精神性向上プログラムは急務であるはずだ。
自分が肉体だと思い込んでいる限り———私心のない「奉仕の道」も、神を信じる「帰依の道」も、内面を探求する「英知の道」も———どんな道を進んだところで、最高の目標に達するのに必要な修行にはなりません。「自分は肉体だ」という意識と執着によって、こころはいつまでもきたなく汚れつづけるのです。こころから汚れをなくさない限りは、神聖な気持ちで満たされることはできません。コップが水でいっぱいだったら、ミルクを入れることはできません。まず、コップを空にするのです。 (「神の詩」サイババ)
神聖な行いのために、何の心配もいらない人生を味わうために、何より大切な徳性は、感覚の節度を守ることです。 (「神の詩」サイババ)
光は、赤、緑、青すべてが混ざって、初めて白(White)になるという。なぜなのか。おそらく、対応する逆の周波数同士が互いを打ち消しあってしまうのであろう。どうやら、波が重なるときの変位は、元の波の変位を足し合わせた値になるという重ね合わせの原理によって、真逆の紫と赤が中庸の緑と同じ波(実際には、赤紫)になり、さらにそれが緑の波と逆向きに重ね合わさって、定常波(同じ波長、周期、振幅の二つの正弦波が互いに逆向きに進んで重ね合わさるとできる、場所によって単振動するだけの波)(「日常の『なぜ』に答える物理学」真貝寿明・著)になるようだ。日本語では、色は、エロのことをも言うけれど、色なし、つまり、節制・禁欲ができるということは、心の波動の全周波数が揃い、あるいは、心の次元が全域に及び、十分に円熟しているということを示しているのだろうか。逆に、そうでないということは、自分の中に、まだ何か足りない要素があるということなのであろう。無色は、無私欲にも似ている。節制・禁欲の例えに限らず、「無いようで、全てある。全てあれば、何も無い。」ということは、そういうことなのかもしれない。
利己主義と利他主義。
誰にでも、利己主義なところはある。しかし、それぞれの利己主義の間に「思いやり」の円滑油があれば、たとえ、利己主義を抱えていても、それが緩衝材となって、うまく調和していくことはできるのではないだろうか。自分にも権利があるのと同じように、人の権利も認めてやるということである。また、人の権利を認めた以上、自分にも権利があるわけである。人間など、可愛いものである。そんな神様のような、超越した心境で、上からこの世を達観しつつ、ゆったりとした気持ちで過ごすことが出来れば、不幸な気持ちになることはないし、実際、自分がどれだけ恵まれているのかを考えれば、決して、不幸ではないことが分かるであろう。
あなたがお金を所有している限り、神に逆らうでしょう。・・・すべてはつかの間の出来事です。永遠なるものはただ一つ、神の愛のみです。神の愛を得ることが出来ないとしたら、人生はすべて無意味なものになります。 (「箴言」サイババ)
それが本当に要るのかどうか。要るとすれば、何故なのか。この判断基準を人生の指針にするだけでも、合理的に生きることができそうである。この問いを突き詰めてゆけば、結局、自分がどのように生きたいのか、という問題に直面するのだ。
実は、物質的な強さというものは、ある意味では弱さとなりうるのです。神に支えられた力にだけ正義の力があり、それだけがまことの強さです。 (「神の詩」サイババ)
いったい誰のために、誰に向かって、力をふるい、偉いところを見せつけようとするのでしょう。・・・すべての中にただ一つの神がいることを忘れずに、みずから正しくふるまい、自分にさずかった仕事をすることです。 (「神の詩」サイババ)
正義の確立こそ、私の計画です。正義を教え正義を広めること、それが私の目的です。あなたが奇跡と思っているものは、正義を確立するための、ただの結果に過ぎないことを覚えておきなさい。
(「箴言」サイババ)
「古代と中世の心理学は人間と観念との関係をもっとよく理解していた。観念の現実性がはっきりと分からない限り、頭脳は観念を正しく扱うことができないことは知られていた。さらに、昔の心理学は、頭脳は異なった種類の観念を同時に、または間違った順序で受け取ることができないことを知っていた。・・・観念を不規則で無秩序に扱うことの危険性が理解されていた。」「ある観念は非常に強力で、膨大なエネルギーを秘めており、正しい推論も誤った推論も必ず巨大な結果をもたらす。人間の魂の最も隠れた深みにまで達することのできる観念があり、いったん影響を受けると、その痕跡は永遠に残る。」
(「新しい宇宙像」P.D.ウスペンスキー)
「人間は、活動や仕事を通して、心と言葉と行為の調和を学ぶのです。偉大な魂の人にとって、心と言葉と行為はいつもひとつです。」「苦行の本当の意味は、心と言葉と行為をむすびつけて、思いと話と身体を一つにすることです。それがまことの苦行です。」
(「神の詩」サイババ)
真実というものは、どのようなことがあっても神聖なものです。
(「箴言」サイババ)
‘ Just as the end of culture is progress, the end of knowledge is love, and the end of wisdom is freedom.’
― Sai Baba, Divine discourse on Jan. 25,1979
「文明の行き着くところに発展があるように、知識の行き着くところには愛があり、また、英知の行き着くところには自由があります。」
(サイババ、1979年1月25日の聖なる講話)
For faults and sins committed in ignorance, repent sincerely and try not to repeat them. Pray to God to bless you with the strength and courage needed to stick to the right path. Don’t allow anything to come near you that will destroy your eagerness and enthusiasm for God. Want of eagerness will cause the decay of the strength of people.
(Sandeha Nivarini, Ch 7)
―Sai Baba, Thoughts for the Day on July 9th,2021
無知ゆえに犯した過ちや罪に関しては、心から悔い改め、再び繰り返さないよう努めなさい。正しい道を行くために必要な力と勇気で、あなたが祝福されるよう、神に祈りなさい。あなたの神に対する意欲と熱意をそぐいかなるものをも、側に寄せ付けてはなりません。意欲の喪失は、人々の力の崩壊を引き起こすでしょう。 (サイババ、2021年7月9日の今日の御言葉)
「神は決して消えることのない、たったひとつのともしびです。神に救いを求めなさい。神とは、最高の光、すべてのたましいがもつ光、限りなくたえることのない光です。神は、ふたつとない、ただひとつの輝きなのです。」 (「神の詩」サイババ)
「決して消えることのない、この世でただ一つの光は、真の自己、アートマの光です。」「目に光を与えるのは、知性です。ただ、知性はどこから力を受け取っているのでしょう。アートマがあるから知性は輝くのです。」 (「神の詩」サイババ)
神はただ、心が清らかであるかどうか、それだけを見ています。学歴も、地位も、お金も、神は少しも気にしません。・・・こころが清らかでなければ何にもなりません。・・・真実とまごころを毎日実践することが大事です。真実とまごころは、一生にわたる宝となるでしょう。ごちそうをいろいろ見せているだけで、お腹のすいた人が満たされるでしょうか。お金の話を聞くだけで、貧乏から抜け出せるでしょうか。身体にききそうな薬の話をするだけで、病気の人が治るでしょうか。・・・偉大な真理も、ただ聞いているだけでは、たいして得にもなりません。・・・そこからいくらかでも学ぶものがあれば、その真理のひとつでもふたつでも実際にやってみれば、そこから本当の悦びが得られるはずです。その中でも何よりも重要な教えは、感覚の節度を守ることです。・・・それと同じことは、プラフラーダも魔王の父親に言っていますし、スワミも何度も言っています。・・・自分の心も支配できない人が、神の甘い蜜を味わえるはずはありません。
(「神の詩」サイババ)
真実でないものから真実へ
闇から光へ
滅びゆくものから不滅のものへ
どうかわれらを導きたまえ
(ウパニシャッドの偉大な祈りの言葉)
この世でいう光や物質のない真空には時間が存在しない。
これが「永遠」の場なのかもしれない。
エネルギーを全て使い果たし、
「無」、つまり「真空」となったとき、
「永遠」そのものとなるのである。
そこに「自己」や「自我」はない。
しかし、それこそが「神」、すなわち「永遠」なのであろう。